著者はフリーライターをしていた20代後半の頃、友人に誘われて師走の築地に行き、築地場外市場で見た鮭屋の親父さんの包丁さばきに魅せられてその店で数日間手伝いをした。それがきっかけで師走にバイトすることが幾年か続いたある日、親父さんが「入院するので、その間だけ店を手伝ってくれる?」といい、そのまま帰らぬ人になった。著者はそれから、少し年齢の高い「鮭屋の小僧」となって30年働き、今では鮭店を引き継いで経営者として悪戦苦闘の日日を送っている。
この本は、その30年の間に著者が鮭に包丁を入れながら、また夜明け前の立体駐車場でトラックから荷降ろししながら、河岸引けのとき凍える寒さに七輪で暖をとりながら聞いた話が源泉になっており、築地から中央卸売市場が去る今、その記憶を後世に遺そうとつづったものである。すでに引退した築地の生き字引の人たちの所に足を運んでのインタビューをはじめ、戦前・戦後の歴史にも思いをはせている。
魚を上手に切りたい
鮭屋の親父が、100切れ切ろうが1000切れ切ろうが、目方を微塵も崩さずに切る姿にあこがれた著者だったが、そうなるまでには努力と工夫の積み重ねが欠かせない。切り慣れてきて、まな板の上に載せたとき、魚の上に点線がついているかのように、何も考えなくても切る箇所や角度がわかるようになるまでが第一段階。指定グラム通りに切れるようになるのが第二段階。20㌘の弁当用の小さな切り身を目方通りに切るために、一切れずつ秤にかけて、30㌔切り終えたとき1500切れの切り身になるようにする。
男性比率が圧倒的に高い職場だが、男女差を意識しても仕方ないし、年齢や資質で能力に差があるのは当たり前。それをこえるため、昨日よりは今日、今日よりは明日、もっと上手に魚を切りたいと切磋琢磨する職人の街が築地であり、職人仕事にゴールはないと著者はいう。
また、築地の市場人の多くが産地を訪れ、自分の商う商材について学ぶし、産地の人も築地を訪れ、獲った魚の扱われ方や値段を知る。両者の交流が市場と産地それぞれのノウハウを培っている。このことを著者は、自分自身の鮭を通じた経験として書いている。
東日本大震災を契機に
きっかけは3・11東日本大震災だった。三陸の多くの荷主と連絡がとれなくなった翌朝、場外市場の理事長が組合の若者たちを集め、「われわれは長年、東北の産地のみなさんにお世話になってきている。だから、今私たちができることを考えてくれ」と訴えた。それに応えて募金活動と炊き出しがスタートし、著者も宮城県牡鹿半島の小渕浜をめざして週末ごとに東京から車を駆った。
それが縁で、翌年著者が築地で子ども料理教室を始めたとき、小渕浜の漁師の鮭漁を撮影したビデオを見せることになった。そこで目を見張ったのは子どもたち以上に著者自身で、鮭が一つの命であり、獲る人がいるから売ることができるのだという事実にはじめて関心を持ったという。それから著者は全国各地の鮭の産地を訪ね歩くようになった。
「南部鼻曲がり」という鮭に、著者は築地の銀鱗会で出会う。築地で働く女性たちがネットワークをつくって岩手県大槌町に物資や募金を送っていたのだが、その大槌町からお礼として届けられたものだ。大槌町では震災後、漁業組合が15億円の負債を出して破綻したのち、200人の漁師が新組合を立ち上げ、プレハブで仕事を継続していた。
この「南部鼻曲がり」は、自然の摂理を上手に利用してつくられた究極の保存食だという。鮭は海にいる間は回遊に必要な脂を体に蓄え、4年後、十分に成熟して故郷に向かう。最後の大仕事である産卵とその直後の死に至るまでの残りの時間は体内時計にセットされており、本能に従って川に近づくと食を断つ。オス鮭同士はつがいとなるメスを得ようと互いがたたかうため、河口に近づくにつれ鼻柱が伸び牙が鋭く尖ってくる。この頃の鮭が、脂が適度に抜け落ち、干し鮭をつくるのに適している。11月から12月、定置網で獲った鮭は、その日のうちに内臓を抜いて丁寧に塩をすり込み、「やませ」という寒風にさらす。鮭は死してなお、みずからの体に旨味を醸造する。
本書のなかの随所に、長年の経験からくる漁師の知恵や卸売市場に携わる者の知恵がちりばめられており、それを著者が大切に思っていることが伝わる。とくに、「日本全国津々浦々さらに世界の漁港からも魚が集まり、目利きが正当に評価する。築地の存在意義は、相場の形成と安定供給。市場で働く皆が胸を張ってそう答えた」「市場には、生産者と消費者のなかだちとして品の良し悪しを見極め、適正価格を形成しダブつきやロスをなくす使命があると教わった」というところなど、卸売市場を担う者の誇りがうかがえる。政府や規制改革推進会議が規制緩和によって壊そうと狙っているものでもある。
築地場外市場は、これからも築地で営業を続けるという。
(いそっぷ社発行、B6判・246ページ、定価1600円+税)